翌日の朝、TAKUは前日までの連日深夜にわたるレコーディングで疲れていたのにも関わらず、意外と早くに目が覚めた。ベッドを抜け出し、洗面台へ向かうその体にも、疲労がまるでないかのようだった。調子がいい。だがそれも、そのはずだった。今日は、“蒼菜に会いにいく”そう決めた日だったから。
洗面台を出ると、TAKUはリビングへ行き、おもむろにSmoky eyesの今度出す新曲のデモテープをかけ始めた。
※―・・・
最初はただの戯れる仲
あの頃のぼくらは ただ 仲が良かっただけ
・・・―※
TAKUがテープと一緒に、口ずさむ。
その瞳は、はるか遠く、昔の蒼菜を思い出していた。『拓哉先生・・・!』と懐いてくる、水泳教室での蒼菜のことを。。。
※―・・だけど その笑顔が
あの日から悲しげに うつむいてしまってから
僕は 大切なものに 気づいたよ・・―※
次に思い出す、あの日の事故の風景。
血まみれで動かない母親のことを、何度も叫ぶ蒼菜。
駆けつけた大人たち誰もが、手遅れだと直感した、救いようのない有様だった。
※ぬぐっても ぬぐっても その頬を濡らす涙に触れて
君の笑顔を その大切な笑顔を どうか僕が 守りたいと思ったんだ・・-※
水泳教室の事務室で、気のきいた言葉の出ない拓哉を前に、『ありがとうございました』。
そう一言、父親に連れられて、明らかに連日泣き明かした後の、腫ればんだ目で、蒼菜が健気に言い残し、去っていく。
もう、何年くらい経つだろうか、昔の記憶だった。
デモテープを歌いながら、空欄になっていた、その歌のタイトル欄に、
TAKUは傍にあったサインペンで”最愛”と書き入れた。
※―・・・『愛してる』それ以上の言葉があるのなら、
その言葉を 貴女に 捧げたい・・・-※
デモテープはそこで終わっていた。
しばらくの沈黙の後、「俺、何してんだろうな・・・」
思わず、TAKUは呟いた。だが、それもそのはず―・・。
今や誰もが知っているロック・バンドの歌が、ある一人の女の子のために歌われてるものだと、誰が知るだろうか。そんなことが、あっていいのだろうか。
それは、バンドでTAKUが蒼菜への歌をうたい始めたときから、心の奥で、うっすら感じていた、背徳感だった。バンドが日々有名になっていくのを目の当りにしながら、嬉しい
気持ちの一方で、冷たい、背筋を流れる水のように、その背徳感の罪の色も、どす黒く濃くなっていく気が、TAKUにはしていた。
だが、逆に蒼菜という子が居なかったら、Smoky eyesの今はもちろん、人気ボーカルとしてのTAKUもいなかった。
「Smoky eyesの曲は、悲しい恋愛曲が多いけど、そこが魅力です」「私も片思いしてるから、TAKUさんの気持ち、すっごくよく分かります!」ファンレターでそう書かれた手紙を今までに何万通もらったことか。
TAKUの綴る、蒼菜への片思いの気持ちが、全国の何万人というファンたちの心を掴み、
言ってしまえば、それがバンドの大きな、一つの魅力になっていたのだから―・・・。
『下手したら、その子も巻き添えになるぞ』
TAKUは平井社長の言葉を思い出した。決して、自分とて、そのことを心配していないわけではない。蒼菜の将来を潰すわけにはいかない。
でも、”大人になった、蒼菜に逢いたい”
それはビックになっていくバンドのボーカルをやりながら、TAKUが
長い歳月抱いていた、唯一の夢だった。
※人を 愛しく思う気持ちは
悲しい季節も超えてゆく
今 貴女へ 会いにゆく
真実を知る季節が 貴女に 訪れる・・・-※
“最愛”。そう名付けられた、デモテープの最後を、TAKUはそう歌って締めくくった。
また一つ、この世に、蒼菜宛ての歌が、生まれた瞬間だった。
時計を見ると、そろそろ、出かけるべき時間だった。
平井社長からの情報通りだとすると、蒼菜は郊外に住んでおり、いつも登校へはラッシュアワーを避けて、早朝に電車を利用して行ってるらしい。恐ろしい情報力だった。
(平井社長、怖い人だ。)
改めて、平井社長からもらったメモをじっと見つめるTAKUの、その表情には、
それでもうっすら、微笑みがもれていた。
メモには、蒼菜の大体いつも乗る電車の時刻まで、探偵をつけたのだろうか、書かれていた。
すべてが・・・そう、すべての手筈は整っていた。
ここまで周到な情報をよこしておいて、会いにはいくな。と言った平井社長。
(この日が来ること、見透かしていた?)
すこしの疑問が頭に浮かぶも、もうTAKUの心は、遥か彼方、
蒼菜の住む街へと、かき立てられていた。
「はやく・・会いたい」
デモテープを引き出しにしまい、メモを鞄の奥の奥へとつめたTAKUのその顔に、もう迷いはなかった。